優しさと言えばそれは、それは当然他人と比べてどれだけ不当に優しくされたかを指し、
また都合の良いイエスマン、そういった評価を下す手段は相対的なものであって、
優しさを絶対評価で測るのは不可能で、愚かとしか言いようが無い。
そう来れば当然、優しくない人というのは他人以下の扱いを受け、
また自分にとって都合の悪い人を指す事には、何の違和感も無い。
仮に朝、起きたい時間に起こし、好みの量のミルクの入ったコーヒーを用意し、
バタートーストを焼き、スクランブルエッグを適度の甘さで料理してくれ、
当たり前のように弁当と軽食を準備し、魔法瓶にレモンティーを注いでおく、
まるで楽団のシンバルのように一定のリズムを与えてくれる人がいたとしても、
僕以外の人に対しても同等に与えられていた場合、
それは優しさではなく、あくまでそういう気性の人、
という評価が打たれるのは至極当然で、もしそこで、
ミルクの分量を1ml間違えたら、アンフェアだと叫ばれ、
優しくない人という不名誉なレッテルを与えられ、
鬼畜生と呼ばれたって仕様がない。間違えはいつだって許されない。
産業廃棄物のごとく優しい人というのは其処彼処に溢れかえり、
一方明日起こり得る、1mlに怯えながら生活している人の多い昨今、
一家に一台のブルドックソースは必要無く、Oisixの評判が頗る快調。
どんな時代だって人はフェアネスを話題に出しつつも、
アンフェアである事を願い、下を見ながらにやけている。
加えて責任も信頼もすべてデフォ、世界で一番可愛くて可愛そうな自分が、
世界には数十億人いるわけだ。そんな時代に僕らは生きる。
というわけでどうでもいいことが余りに多く、
逆にこんな時代だからこそ、生きることは大変に楽チンである。
苦しみを憎しみで返す罵声と要求と涙さえあれば、
今日の全てを昨日に、まだ見ぬ明日は忘れた一昨日へデフォ、
こんなに生きやすい時代は今まで無かったね。